皆様初めまして。猫好きランナーと申します。
見て頂きとてもうれしいです。
私は現在32歳のしがないサラリーマンです、
現在は社会復帰し、元気よく働けていますが、昔はうつ病を患っていました。
理由は、大学でのいじめやパワハラによるものです。
そんな私が、どのようにして社会復帰し、現在に至ったのかをブログで1万文字にして書きました。
この記事を通して、
・今夢が無くて立ち止まっている人
・今うつ病で悩んでいる人
・学校や職場で生きずらさを感じている人
の心の支えになりたい。
少しでも、前を向いて人生を歩んでほしい。
過去の私と同じように現在もがき、苦しんでいる人の未来が少しでも明るく生きてほしいと思い、拙い文章ではありますが、少しの時間お付き合いください。
【小学校時代~大学生時代】

小学生~中学生の卒業まで~家族に流されてばかりで何がやりたいのか分からなかった学生時代~
ぶっちゃけ、ただのド陰キャ、根暗でした(笑)。
基本母子家庭ですが、家族構成は祖父、祖母、母、私でした。
祖父は、元N〇Kの副部長さん。祖母は、公務員(教師)、母はOLでした。
また、母からは父は、歯医者だと聞かされていました。
一見エリートの家系の出だと思われる方もいるとは思いますが、実際の家族の中は険悪そのものでした。
母が帰ってくれば、母が祖父や祖母に八つ当たりしたり、叔父があまりの母のヒステリーを聞きかねて暴力を振っていたのを今でも覚えています。
なので家族が嫌いで、毎日毎日生きている事自体がとてもしんどかった事を思い出します。
その上、なんで自分だけ父親が元からいないんだろうか?父親ってなんだろうか?なんて思ってました。
でも、そのことを口に出せなかった。
何故か心の中にぽっかりと穴が開いている感じがしていました。
そんな毎日を送っていたため、学校で一人も友達らしい友達なんてできたことはありませんでした。
唯一の楽しみといえば、習い事をしている時ぐらいだったと思います。
習い事は、習字、そろばん、水泳、くもんの4種類でした。
まぁ、そんなにも小学生の頃から習い事ばかりしていたものだなぁと思います。
まるでエリートサラリーマン(笑)。
特にスイミングスクールに通って泳いでいた時は嫌なことを忘れられたので、特別な時間だったと今でも思っています。
また、習い事と小学校の行き来で友達と遊ぶということ自体はほとんどなかったように思います。ただ、ここまで習い事をしても、成績が良かったわけではありませんでした(笑)。
小学生を卒業した後に、祖母から
「将来のことも考えて。」
ということで、習い事を全てやめて塾にだけ通えということで大好きなものを全部やめ、塾だけ通い続けました。
部活はしようと思っていたので、水泳部だけには入りました。
ただ、水泳部の先輩や祖母から
「スイミングスクールに行っていないので、戦力外。」
「遊んでばかりいる。」
等の言葉で自分の主張よりも他人の要望に従い中学1年生の終了時に水泳部を辞めました。
周りが部活をやっているのに、私だけは中学2年生になって帰宅部になったため、急に一人ぼっちになってしまいました。
周りになじめなかった為か、小学生の頃よりもより一層表情が暗くつらかったのを覚えています。
また、学校から帰宅したらゲームばかりをやっていたため、成績も悪かったように思います。
そのまま中学3年生になり受験勉強をしました。
成績が悪いため、塾の先生からは
「どこの高校にも行けない。」
と言われ必死に受験勉強をし、何とか私立高校に入れたのを覚えています。
高校生~大学生の卒業まで~夢のない苦しすぎる日々~
高校1年生時にこのままではと思った為か、勉強して自分自身の性格を直したいと思い、猛勉強して医学部に入学するためなぜか周りに宣言していたのを覚えています。
理由は、親戚の息子が国公立の医学部に受かったからだと思います。また、クラスにいた不良からのいじめも相まって猛勉強をしていたのを覚えています。
その際に言われていた言葉の数々はいまだに覚えているほどで、
「ミスった。ふてこい顔見てもうた。」
「お前なんか〇ね」
なんて言われ、毎日泣いていました。
また、教室にいるだけで殴られる事も何度もありました。
猛勉強した結果、2年生に上がる際に成績優秀者としてコースを変え、その同級生とは離れることができました。
高校2年生~高校3年生はというと、ここからが勉強しなくちゃと思って勉強をし続けようとするのですが、いじめられないと思った安心感と自分の本当の夢は何だったのかが分からなくなっていまいました。
そもそも勉強した理由はただその場から逃げたいだけの理由であったのではないかと思うようになっていたからです。
そのままズルズルいってしまい受験期になってもどうしても勉強に気が入らず、結果浪人してしまいました。
浪人生になってからも、化学反応や生物が好きだという単純な理由から、理系の大学に行こうと思って勉強し始めました。
ただこの時が母が会社から解雇されてしまったことを思い出します。
それでも浪人させてくれた母には今では感謝しています。
その際、経済的な理由からやはり国公立の理系大学を志望したのですが、結果落ち、何とか理系の私立大学に入れたのでした。
大学1回生になってからも、母のリストラや通学が2時間もある事や自分が何のために生きているのかですら分からなくなり、そのことで自暴自棄になり暗く卑屈になっていました。
また、生物課の学生実験時、小さな失敗が原因で留年していた先輩(?)に当たる人から
「あいつはアホだ」
と馬鹿にされ、そのことを周りに言いふらされ、より一層自分がみすぼらしく思えたことを今でも覚えています。
更に、体育の授業の為に、なぜかバス移動で現地に行くことになっているのですが、後部座席に座っている子がなぜか突然自分の肘を足で蹴り、
「嫌がってる?」
と言っていたのを周りに言っており、周りはただ無反応だった為、それ以来人間不信になってしまったのを覚えています。
それらの事を周りに話せず、結果意識が散漫になり、実験器具を壊してしまいより一層馬鹿にされていました。
その際同級生に直に
「お前〇ぬで!」
と発狂され、心が砕け散ったような音がしたのを覚えています。
自分も悪いかもしれませんが、この頃から、誰でもいいので話を聞いてもらったり直ぐに辞める。
または別大学に編入学していれば、うつ病に繋がったり周りに迷惑をかけていなかったのではないかと思うと少し後悔しています。
そんな大学生活を送っていた自分でもたった一つだけ心の支えとなったのは、
「山中伸弥教授がiPS細胞でノーベル賞をとった。」
というニュースでした。
山中教授も周りから馬鹿にされても医者になるという選択肢を捨てても研究を続けて最後はノーベル賞をとったのだという事実はその時の自分を再度奮起させてくれたのだと思います。
そこで、一念発起して学部内で一番単位を取りずらかった生物のレポート課題で満点(10点満点)を取ることを目標としました。
5回レポート課題があり、そのうちの1つだけでも満点を取れればいいと考えました。
結果は9点と後1点で惜しかったのですが、自分が必死になったという事実があったため、少しほっとしていた自分がいました。
大学2回生になってからも、私に対する偏見は変わらなかったのではないかと思います。
気持ちの整理も出来ていなかった為か生物の実験の事を思い出してしまい手が震え作業ができなくなった事を周りから笑われより一層トラウマになり、毎回実験室に入る時に過呼吸になって周りから変な目で見られたり、ひどい時には
「実験操作雑じゃな~~い。」
と言われていました。
その上、生物だけ授業には参加するが、何もしない為、
「あれせい、これせいは言われないで!」
「(私の名前)君はノールックで」
というような陰口ばかり言われていました。
何とか大学2回生を終えた頃には毎日眠れなくなる、過呼吸になる、失語症になる等の障害が出ており、心も体もボロボロ状態でしたが、それでも自分が弱い・頭が悪い・主張力がないのが原因だ。
将来家族を支えるためにはこれぐらいの苦労は当たり前と思っていました。
また、一浪させてもらったのにも関わらず辞めたりするのは母には申し訳ないと思って家族にも言い出せずにいました。
このことは、ブラック企業勤めの人が良く言っている事かもしれませんが、
「お金の事やパワハラなどの事が関わってしまうと人間は正常な思考ができなくなってくる。」
というのは本当の事だと思っています。
ただ私は過去の自分にもブラック企業でのパワハラに耐えている人にも言いたい。
「そんなことは考えず、直ぐに逃げ出していい。
確かに苦労するという事は必要なのかもしれない。
でも、それは虐めに耐え続ける事、体に異変が起こっても耐え続ける事ではない。
逃げたら少し気持ちを整理して次の行動を起こしていけば、何とかなる。
何よりもあなたの命が大切だ。
生きていれば、何とかなる。」
と。
大学3回生になってからも常に頭の中には常に1回生で受けた虐めのことで、研究室に配属されてからも周りに八つ当たりし、逆に研究室の気分を害しました。
結果、全ての事を一人で抱え込みまた自暴自棄になりの繰り返しで、遂には報告会の時に研究室の講師から2時間以上の説教、ペンを投げられる、机を脚や手で蹴られる・叩かれる、
「お前何度も言わせんなよ!」
等の暴言、他の教授からは
「社会出たら傷付くのは当たり前だ。」
等の事を言われていました。
どうやら、その様子は後輩も知っていたようで
「味方がいない。」
とも言われていました。
確かに全て自分が起こした事なので、悪いかもしれません。
ただ、そうする事以外出来なかった自分がいたのも悔やまれる事実でした。
そんな事が続き、1時間以上の鼻血が出て貧血になったり、説教を受けている時急に涙が出る、不眠症で眠れない等の異常が体に出だした時にようやく家族に言わなければと思い始めて報告し、そこで祖母が学長に報告する形で、半年間休学させてもらい何とか4回生になれました。
大学4回生で就活を始めましたが、大学院や専門職への夢はパワハラ・いじめ等により自分の中ではあきらめた方が良いと思っていました。
それでも理系に追従した仕事をしたいと思っていたため、教育関連の仕事(教えることが楽しかった為。)や飲食店関連の仕事(料理は良く実験や研究に例えられる)を志望しましたが、全落ちしてしました。
理由は、単純で自分の人間不信やコミュ障であった為です。
祖母の助けで、講師からの態度が和らぎ、事無く4回生を卒業する事が出来ました。
その際、事務の男性職員の方から、
「生きていろよ。」
と優しい言葉をかけられたのを覚えています。
【再起 ~卒業後、これからの私の夢、将来~】

アルバイト生活と猫との出会い
卒業後は、何とかアルバイトで生計を立てていこうと思い、たこ焼きが好きだった為、たこ焼き屋さんと塾講のアルバイトを両立しながら会社の面接を受けに行っていました。
ただ、やっぱり大学の事がずっと頭から離れず、リクルートスーツを着ながら
「自分だけなんでこんな人生なんだろう?」
と思って駅のホームの前に立って目の前が真っ白になりました。
その時、どこかの中学生から
「〇んだらあかんで、〇んだらあかんで。」
(空耳だったのかもしれませんが、)と少し遠くの方から言われたように思います。
また、この時野良猫の親子に会い、今親猫の方は家族として大切に飼っています。(野良猫との出会いについては、「野良猫親子に突然出会って~猫の親子が教えてくれた大切な事~」)
その後、やっぱり理系の職があきらめきれず、結果派遣社員として理系の仕事をしようと思い、過去の事やうつ病に決着がついたら派遣社員を辞めることを決心し、派遣社員として大手の電解液の製造職で働き始めました。
派遣社員としての勤務、ジム通い、陸上との出会い
就職してからも大学生の事で頭がいっぱいになり、(このころもまだ過去のことで悩み苦しんでいました。)時々、作業中に手の震えが収まらなくなる、鼻血が何分間か出る等大変な思いをしましたが、時間がある時に職人の皆様に過去の辛かった話を聞いて頂いた事や、温かい上司の方のおかげで、少しずつですが前を向いて自信を取り戻せるようになっていった私がいました。
また、アフター5には体も鍛え心を強くしていこうと思い、ジムに通い始めました。
少しずつ作業にも慣れ、仕事も上手く行きだし始めた頃、会議で
「社内コミュニケーションを更に良くするためには?」
という議題が出たため、私が「プライベートでも何かしらの集まりを作ってみる。」
を提案した所、マラソンをしてみないかと別の班の上司や先輩に言って頂け、断る必要のなかった私はその時始めてフルマラソン42.195 kmを走るための準備を始めました。
最初は、奈良マラソンの観戦をしないかということで、職場の皆さんと一緒に先輩の応援に出かけました。
最初は「日曜日なのにどうしてわざわざ走りにいかなければならないのだろう?」
と心の中で思っていたのですが、観戦しているうちにマラソンを走る意味が私の中でスッと入ってくる感じで、理解できたのでした。
それは、私の過去に何度も自殺しようとしていた自分ですらアホらしくなるくらいに。
過去の私は毎日毎日明日を考え、くよくよするばかりで暗くなっている事に気づかずに生きていたのだと思います。
結果自分自身で人生を複雑にし、良くないものを引き寄せていたのだと気付いたためです。
この大会に出ている人たちは、
「どのような状況になるにせよ、未来が見えてないだろうが今この時のためだけにただひたすら練習してきた。」
のだと。
ずっとくよくよしていた自分がアホらしくなり、それと同時に
「走ろう。
今この時から人生が始まる。
ズタボロでもいいじゃないか。
弱くってもいいじゃないか。
鼻垂らして、泣きベソかいて、汗かいてもいいじゃないか。
自分が嫌になるくらいアホらしくてもいいじゃないか。」
と初めて私自身の過去も含めて認められたのだと思います。
この時から、もしも私の心が砕けそうになったらいつでも心の中でこの言葉を思い出すようにしています。
大会観戦後感動した私は職場の先輩から誘われて、一緒に走ることから始め、少しずつ一人でも走り始めていましたが、最初は10 km走るだけでも筋肉痛になりました。
また、計4大会に出場することに決めました。
大会は神戸マラソン、淀川マラソン、京都マラソン、淀川寛平マラソンでした。
しかしながら、くどいのですがフルマラソン観戦後も少しだけ大学生時の記憶は残っており、時々ですが睡眠時思い出して途端に過呼吸になることがありました。
また、どうしても
「フルマラソンが走り切れるのか。」
「過去のように嫌になって途中棄権してしまうのではないのだろうか。」
と思う事がありました。
就職してから1年が経ったある時、脚力強化の為に山登りのイベントに参加したのですが、山の奥地で右は断崖絶壁、左は歩ける道で一人になった時、ふと心の中で
「今この世から私がいなくなれば、過去の事も忘れて今みたいに過呼吸にならずに楽になれるんだ。
今ここで足を滑らせれば・・・。」
と考え始めてポツンと立ちすくんでいました。
すると、どこからか頭の中で私に質問してくる声が聞こえたような気がしました。
その声は、
「今君が死ねば、何が残る?今君が生きれば何が残る?」
と。
私は、
「今人生を諦めれば、何も残らない。
運よく遺体は見つけられても、ただ家族を悲しませるだけ。
今生きれば、体が残る。
ゴールがあり、そこでスタンプがもらえる。
足も手もそれさえあればなんだってできる。
未来が手に入る。
もしかしたら、自分が完走さえできていなかったフルマラソンでさえ完走できるかもしれない。
何よりも多くのものが手に入る。」
と返答しました。
その声は、
「ならば、走れ!ただ走れ!」
と返答され、再度生きようと腹をくくりました。
それ以降からは、体に異変が起きたり、自信がなくなったりする事は無く、本当に前向きになれるようになった私がいました。
この出来事以降、あの場所には戻りたいとは思わなくなったので、山登りはしていませんが、近々再度山登りをしてみようと思います。
山登りから帰ってきた後、様々な大会に出させていただき少しずつですが、短距離では自己ベストが更新されてきたため、フルマラソン4時間30分を切ることを目標にしました。
結果淀川マラソンでは惜しくも4時間31分でした。
また、この時初めてフルマラソンを走ったわけですが、元々持っていた
「フルマラソンを走れるのだろうか?足を壊さないだろうか?」
という疑問以上にゴールした時の気持ちの方が強く、特にゴール手前に来た時多くの人が応援してくれたことはとても印象に残っており、更に仕事もマラソンも両立して頑張れるきっかけとなりました。
そしてこの時感覚だけは掴めたので、神戸マラソンに繋げようと思っていました。
ただ、神戸マラソン本番の一日前なぜか私はハーフマラソンの大会にエントリーしていたらしく、ハーフマラソンを走った次の日に筋肉痛になりながら走ったのを覚えています。
なので、結果は淀川マラソンと同じく4時間31分で目標には届きませんでした。
また、この年の終わりに一人で大阪マラソンの応援をしに行ったのですが、再度応援側になってみると更に感動したのを覚えています。(大阪マラソンの応援については「最終ランナーが見せてくれた希望~その時、私の中の時間が止まった~」)
淀川、神戸フルマラソン両方を走った後、再度練習メニューや走り方を習いつつ、上司の方から
「一人で練習せずに、グループで共に練習しないか。」
と長居公園の「ランるつぼ」というグループに参加させて頂きました。
そこで、共にランナーの方々と交流していくうちにより一層速さにも磨きをかけることができ、30 kmでも2時間27分とフルマラソン予想:3時間30分を切れるくらいにまで短縮することができたため、京都マラソンで3時間30分を切る事を目標にしました。
ですが、結果京都マラソンでは3時間36分と惜しかったのを覚えています。(京都マラソン出走については、「夢を叶えて駆けていく~道は続くよ何処までも~」)
また、京都マラソンの結果を含めて再度練習メニューを立て直し、淀川寛平マラソンに出場しました。
結果3時間31分とまたもや惜しくもその年の目標を達成することはできませんでした。
しかし、1年でフルタイムの記録を1時間短縮させることができた事で更に自信をつけることができました。
また、私がマラソンを走ることに対して応援してくださった職場の方々や家族には今でも感謝しています。
就職から2年目になった時、製造職だけでは食べていけないと感じた私は
「元より学生の時から行ってきた分析の方をメインに仕事をしていきたい。」
「先輩の残業時間を少し緩和したい。」
と感じたため、部署移動をお願いしました。
結果製造の上司の方や分析の上司の方の理解があったおかげなのか、すんなりと部署移動を許して頂けました。
部署移動後も、分析での仕事も頑張りつつ、陸上も両立して頑張っていました。
陸上では、3時間切りを目標にし、仕事ではいつでも周りにも教えられるようにするために努力していました。
しかし、その頃陸上をしていて初めてケガをしてしまいました。(怪我をしてしまった時の私の事については「今できる事を全力で~逆境を味方に付けて~」)
何しろいきなりケガをしてしまったので、スポーツジムで
「もう走れないのか!」
と毎日泣いていたのを思い出します。
また、その年は念願の大阪マラソンや姫路城マラソンに運よく当選しており100 kmマラソンにも挑戦しようと思い喜んでいたのですが、怪我をした事で少し気持ちが弱くなったのを覚えています。
ただ、幸いなことに骨が折れたわけでも、一生走れない足になったわけでもなく、8、9月ごろには痛みも引いていました。(走っていた際、足首をねじってしまいそれが痛みに繋がっていたみたいです。)
何はともあれ、ケガが治り本番まであと2カ月ではあったため、そこから再度毎日仕事終わりにスピード走や距離走に力を入れ練習していました。
大阪マラソンの前日、家族や職人の方から応援を頂き、3時間切りを絶対にするぞ!と意気込んでいたことを思い出します。
ただ、当日少しお腹が緩かったのを覚えています(笑)。
これは、前日間違えてパイナップルや刺身を食べてしまったためらしいです。
そのためなのかどうしてか、おなかが痛いまま走り続けた結果、3時間24分で終わりました。(皆様も、大会前日は生ものや高繊維性の食品は食べないように気を付けてください。)(大阪マラソン出走については「夢を叶えて~例え未来が分からなくても、私は歩みを止めない~」)
就業してから3年が経とうとしているその年の月末、祖父が食道がんになった事を私は母から聞きました。
祖父の死去と再就職
思いもしない急な連絡だったため、驚きました。
元々祖父は私の父親代わりをしてくれていた人だったので、悲しみは人一倍でした。
また、この頃から中国での新型コロナの事がニュースになっており、日本でも感染が拡大するのではないかと感じていました。
そして思った通り日本にも感染が報告され、姫路城マラソンは中止となりました。
その頃、祖父の食道がんの手術の話が上がっていました。
3月頃祖父の手術になり、手術は見事成功したのですが、退院後祖父に会いに行った時、祖父は痩せほけており、以前のようにぽっちゃりとしてはいませんでした。
理由は、祖父の食道癌が更に進行し食べ物が食べられず、何とか果物の汁を吸うか点滴でしか栄養摂取ができないからが原因という事でした。
(後に分かった事ですが、ここまで進行してしまったのは、食道がんが主の理由であったのではなく、以前から受けていたX線での治療法が原因で更に進行してしまっていたようです。
ただ、薬での治療法もあったらしいのですが、そちらは祖父が嫌がりX線の治療法を優先したらしいです。)
5月になり、今度は胃漏で栄養を送る(お腹に管を通してそこから栄養を送る事)ということで祖父は再度手術を受けました。
ただ、この時は術後高熱が出たらしく、もしかしたらコロナにかかったかもしれないということで、私は会社から自宅待機を言い渡されました。(高熱だった理由は誤嚥性肺炎。)
自宅待機していた際、テレビ電話で祖父からは、ただ
「元気か?今コロナで日本は大変な時だから、体大切にしてな。」
と一言だけ言われたのを最後に4日後亡くなりました。
享年86歳、2020年5月21日の事でした。
病気の体でも私の事を心配してくれていたのだと思います。
祖父が亡くなった丁度49日目にあたる日に、コロナにより就業先のグループの解体が行われるという事で、今後どうするかを決めてくれということで、私は
「自分で働く場所を決める。」
事を決めました。
そして、3年7カ月務めていた就業先をやめました。
再就職では3社大阪で頂きましたが、結局1カ月で退社しました。(就職先で起こった出来事については、「大阪で転職活動に成功するも1カ月で会社辞めた話し。」)
今、私の人生を振り返って思いますが、紆余曲折しながらですが成長できたのだなぁと。
特に前職の方には心から感謝しています。
ずっと暗く沈んでいた私をここまで成長させてくれたこと。
そして、希望や夢を分け与えてくださった事。
その上に陸上というかけがえのない宝物を与えてくださった事。
また、私も含めて多くの人がコロナ禍で私のように苦しんでいると思います。
どうかいつの日か昔みたく明るい毎日が過ごせることを願うばかりです。
これからの私の夢・将来

私の将来の夢は、私と関わってくれた人が元気になってその元気が他の誰かを励ませるような存在になっていきたいと思っています。
あの日々から何年か経過しておりますが、今は、再就職しており、塗料業界で働いております。(それ以降のお話しについては、後々「会社を辞めた後、転職エージェントに騙されて再度派遣社員になったお話。」)
ただ一つだけ言えることは、どんなに長い暗いトンネルもいつかは乗り越えてしまえば、明かりがあると信じることができるようになったことです。
どうか私の成長の過程を見守って下されば、ちょくちょくブログで進捗状況をしていこうと思います。
次回のお話はこちらから
「私なりに自分を受け入れて、適職に就職した方法~これまでの私とこれからの私の将来 ②~」
最後に
【過去の私に言ってあげたかった事。これからも大切にしていきたい事】
①あなたはあなたでいいんだよ。
弱いなら、弱くてもいいんだよ。
無理して強く見せようとしなくてもいいんだよ。
②時に休んで、しんどいって言ってもいいんだよ。
③あなたの人生はあなたが作り上げていくものだから、外野なんて無視していいんだよ。
今の日本の状況は、私のようにコロナ禍での失業や職があってもパワハラや過労働の問題に対して会社が穏便になったとはいえどうしても水面下では存在しているのではないかと思います。
なので、若くしてうつ病患者になった一人としていえる事は、
「死にたいと思うくらいなら、その場所から直ぐに逃げるべきだ。
生きていれば、あなたを必要としてくれる場所がある。
一番大切なのはあなたの体だ。」
ということです。
賛否両論はあるかもしれませんが、少し立ち止まってもしも今思い悩んでいる方がいたら、見ていただいた際に少しの背中を押すことができたらと思って少しずつ過去を思い出しながら書きました。
では、また。
